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【本】本数珠つなぎ11冊目 『無私の日本人』

本数珠つなぎ10冊名『十二月八日と八月十五日』の中に「日本人」という言葉が出てきます。「日本」ではなく「日本人」です。終戦を迎え、国体の解体を覚悟したとき、国ではなく個人が浮かび上がってきたのでしょう。日本人としてどう生きていくのか。ひとりひとりが己に問うたのでしょうか。

 

mono93.hatenablog.com

 
じゃあ日本人ってなに?

と思ったときに目に入った広告の本が『無私の日本人』でした。
ということで、本数珠つなぎ11冊目は、

『無私の日本人』幾田道史著(文藝春秋

 

日本人とはなんぞやと思い、タイトルだけで選んだ『無私の日本人』です。ジャケ買いならぬタイ読みです。しかし、今回のタイ読みは失敗でした。私が求めていた内容ではありませんでした。
日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神構造、日本人あるあるについて知りたかったのです。ちょっと違いましたね。『無私の日本人』は実在の偉人、聖人について書かれた時代小説でした。てっきりノンフィクションと思っていたら、史実をなぞった小説でした。司馬遼太郎的な小説ですね。
と、見込み違いではありましたが、面白い本でした。

『無私の日本人』には、いずれもマイナーな三人の偉人、「穀田屋十三郎」「中根東里」「大田垣蓮月」の中編三作が収録されています。しかし、タイトルになっている「無私」といえるのは穀田十三郎のみで、他のふたりは偉人、聖人ではあっても無私とは言いがたく思えました。
中根東里、大田垣蓮月の二人とも私財をなげうって隣人を救います。でも、そこに「私」に対する「公」の匂いがしないのです。隣人に同情しているだけで、広く世の中に対して働きかけがないのです。「無欲」ではありますが「無私」ではありません。どう生きるのかを極めようとしており、突き詰めれば「無欲」の裏に「私益」が見え隠れしています。所詮は己の小さな世界に生きる求道者なのです。

一方、(正確には穀田十三郎と行動をともにした有志も含んで)穀田十三郎たちは「欲」を持っています。でも、その「欲」は「公」に向かっている「欲」です。「私」の求道よりも「公」「公益」を求めています。無私であることで、宿場を救おうと、社会に働きかけているのです。願っているのは宿場に住む人達の生活です。
とまあ、あくまで私見ですが、三人の「無私の日本人」の中で真の「無私の日本人」は穀田十三郎とその有志だと思います。

この「穀田屋十三郎」は映画化されています。映画のタイトルは『殿、利息でござる』とコメディタッチなタイトルです。これは観ないと。

で、観ました。タイトル通りコメディタッチですが、史実だけに泣かせますね。映画のために多少の脚色がありますが、いい映画です。コメディにして説教臭さがなくなっているのがいいですね。
そう、小説の「穀田十三郎」も説教臭さがないのです。他のふたりはなんか偉人伝の説教臭さが拭えません。そういったところもあって好きになれないのでしょうか。

本数珠つなぎ11冊目は『無私の日本人』でした。続いての12冊目は山本周五郎『寝ぼけ署長』にしました。
理由は二つ。このところ重たいノンフィクションが続いていたので、小説が読みたくなってきたこと。本数珠つなぎ10冊目『十二月八日と八月十五日』山本周五郎の日記が出てきて、周五郎の時代小説を読みたいなと思ったこと。この二つです。

ということで続く。